昭和40年07月22日 朝の御理解



 「腹立てば、心の鏡の曇ること」。御神戒のなかに、御教えがございます。「腹立てば、心の鏡の曇ること」。おかげを頂きましてから、お取次ぎの心のなかに段々平静心の、平静心が段々強くなる。ですから大抵の事では、腹が段々立たん様になる。けれどもそこが、生身の悲しさというか、信心の無い者なら、それこそカンカンになって怒るだろうと思う様な事を、しがらみの中にです、それを腹立つどころかかえって有難いと言う様な気持ちで受ける事が出来るんだけれども、そこが迂闊なのです。
 たったその位な事を。たったそんな些細なことがと言う様な事がです、無性に腹が立ったりすることがある。皆さんは、そんな体験はないでしょうか。ね、ほんとに人に顔に係る様にというか、もう腹立てないなら、普通で居るなら居られないと言う様な事柄のなかには、段々おかげで腹を立てんで済む。立てんどころか、そのことに対してお礼を申し上げれるような心すらが、段々育ってくるにも拘らず。
 たったそれだけのこと。いうなら、その些細なことの中にです。無性に腹が立つ。これはねえ、ま迂闊といえば迂闊なんですけれども、私共の心の中に腹が立ったり、嬉しかったり、ね、有難かったり、有難くなかったりと言う様な、その生きておるという印と言う様な、その状態があると言う事。そういう心の起伏というのがあるというのがです。そういうたらおかげなんです。
 今朝から三時半ごろでしたでしょうか。起こされて母が一時間、時間を間違えたらしいです。それから起きたけどまた休ませてもらわず、そのまま勝手のほうへ降りて、時間があるもんですから、楽室で眠っとったらしい。そこんところをけさから朝の参拝の方から起こされた。私がそのことで目が覚めて、洗面所へ参りましたところが、水道水が出ない。たったそれだけなんですけど、無性に(笑い)腹が立つ。
 今日はまた少し足が悪いんですね。あのちょっと二、三段の梯子を上ったり降りたりせなければなりませんので、それが兎に角大儀なんです。ですから水道が出ないじゃないかというて、こちらへ「はあもうまた水が出るようになりました」というて、また向こうへ行くだけの、ゆとりが無いのですから、もう面倒くさいというか、もう兎に角足をやっとこう、引きずって行く様にして歩かんならんもんですから。
 まそんなことが私必ず毎朝、冷水摩擦をするんですが、それが冷水摩擦をしないなりに、今日は奉仕着をつけさせてもろうて、もう羽織袴をつけて下へ降りて、下でだから洗顔させてもらった。もうそんなことがです兎に角朝から、あいすまん事ですけれども、腹立たしい。「お前、馬鹿じゃなかね(笑い)」って、朝から家内は怒られて。そんな気持ちで、ま、いわば御神前に出らせて頂いたんですけれどもね。
 けれども、そういうその腹立たしい、腹立ちやと言う様な、その心がです。あるおかげで、本当におかげを頂く。信心というのは、どう言う事の中からでも、どう言う事の中からでも、有り難しという心を、私はしかも新鮮な、有り難さというものが、頂けていく稽古なんである。信心させてもろうたら、何時もかつもが、有り難いんだと。事が道理が分れば分るほど、ね、
 人が腹立たしいような事を言うたりしたり、もう腹を立てなきゃ居られないと言った様な事柄がです、腹が立たんどころか、その事に対してお礼を申し上げれるような、ゆとりが十分あるかのように思っておるけれども、さあそこが心の油断とでも言うか、迂闊にしておるというか、ほんのいわばそれこそ信心のない者でも、腹をたてんだろうと言う様な事が、無性に腹が立つ。皆さんそんな経験ないでしょうか。
 けれどもそういう腹立ちがです、腹立ちがおかげの元を作ってくれるのです。ね。「腹立てば、心の鏡の曇ること」と、仰る。ね、朝からいわば私の心は曇った。曇ったおかげでそれをぬぐい清めた。曇ったからこそ綺麗に鏡のお掃除が出けたと言う事なのです。何時とはなしに、腹を立てなくてもなんとはなしに、やはり鏡が曇りがちである。けれども、それは中々拭きはしない。ぬぐいはしない。けれども腹が立った。
 「腹立てば、心の鏡の曇ること」と仰るように確かに曇ってしもうておる。だから改めて、これを拭き清めた。おかげで今まで気が付かなかった色々な所までもが、綺麗に清められた。そこに新しい新鮮な喜びが湧いてくる。そんな事を神様にお礼を申させて頂きよったら、「菊」という字、菊の花の菊という字をです。一角一角丁寧に丁寧に、こうやって最後まで書き終わって行く所を頂いた。
 してみると腹立ちもです、要は草冠ぐらいは書いたところなのである。自然に私共の、心の中に降ったり、照ったり曇ったりある様にです。朝三時半に起こされた事も水道が出なかった事も、これも自然の成り行きなのである。つぎにやはり菊の花を書かして下さるための、神様の演出であったと言う事になるんじゃないでしょうか。そして御神前にでらして頂くころには私の心のなかに、ね、
 拭い清められたところの、今までいわば気が着かなかった様な所まで、清めさせて頂いた。そこから新しい喜びが湧いて来る。私の心の中には菊の花がいわば、咲いておるような喜びが、心の中に感じ取ることが出来る。信心とはそこを求めてのことなんだからね。そうでしょうが。信心とは商売繁盛求めて、信心とは利益をあらわして貰う事を求めて、ではなくて。自分の心のなかにです。ね、
 心象になる。ね、鮮烈なまでの喜び。その事をまた神様にお礼を申し上げさせて頂きよりましたらね、お手洗い鉢の中から水がこう、噴水のようにブックブックとこう、湧いておる所を頂いた。そこをです柄杓に汲んで頂いとる所を頂いた。神様の大みかげというものはです、もうその様に限りが無いのである。その汲み取って頂くと言う事がです。ね、ただ、手にもってこう、受けてというのではなくてです。
 その有り難いという心で、受けるのであるから、おかげというものは。「真に、有り難しと思う心、すぐにおかげの始め。」と。腹立ちや腹立たしやと、言う様なその心がです。ね、次には、鮮烈な喜びの元になっていくのである。菊の花でいうならば、それが草冠なのである。勿論私が、今日申しますことには、信心のなかった時代にです、腹が立っておった。そう言う例えば、腹が何時も立つ様な事では、信心は一つも身に付いてないと言う事になるでしょう。
 誰がこう言ったから、ああ言うたからといったような類ですか。まあいうなら普通の人が、普通に腹を立てると言った様な腹はです。もう立たんで済むようにならなければ、勿論いけません。いやむしろですね、その時はお礼の言えれる様な心の状態が、いつの間にか育っておらなきゃ駄目。けれども、迂闊にしておる。うっかりしてです。ま、たったこの位なことで自分ながら可笑しいくらいに、腹が立つ。ね。
 それがどうかというと、只今朝一時間早う起こされたとか。ね。ひねったけれども水道が出なかったと言った様な事柄がです、腹立ちの元になっておる。そして自分で自分の心がどうにも出来ない心を解らして貰い。腹立てば心の鏡が曇らせて頂いたと言う事によっておかげでです。今まで気が付かなかった所まで拭い清める事が出来、そこに信心があり道があるのである。
 そういう教えを日ごろ身に付けておるのである。ね。おかげで今まで拭き清められなかったところまで、拭き清められ、そこから喜びが湧いておるのである。いやおかげというものは、その噴水のように限りなく出ておるんだけれども、その限りないおかげをです、汲み取るものは、私共の心の中から湧いてくる、鮮烈な喜びである。ね。そこんところを、私は、体得させて頂くということ。
 信心とはそう言う様なものだと。信心させて頂いておれば決して腹が立たないと言った様な事は無い。腹も立ち浅ましい心も起きるんだけれど、その浅ましい心やら腹立たしい心やらと言った様なもののその後にはです、信心させて頂く者でなからなければ頂けない、鮮烈ないわば喜びが頂けれる。そういう道を日ごろ頂いておるということが有り難い。   おかげ頂かねばなりません。